"親が創価学会"の子の悲惨すぎる学校生活 2022.8.19

president.jp

2019/06/14

創価学会の子供たちは「神社の鳥居」をくぐることができない。このため修学旅行や初詣で、周囲から疎まれることがある。命名の由来でも、2世は問題に直面しやすい。宗教学者島田裕巳氏は、「信教の自由を重んじるのであれば、なんらかの配慮は必要なはず」と指摘する――。

 

学会員のステータス「命名は池田先生」


「親が創価学会」というとき、生まれて最初に起こる問題が命名である。

赤ん坊が生まれたとき、出生後2週間以内に届け出をしなければならないことが法律で定められている。その際、赤ん坊には名前が必要である。

誰が赤ん坊の名前を決めるのか、命名者が誰かは重要である。現在では、親がつけることがほとんどだろう。だが、創価学会の会員だと、「池田先生」に命名してもらうという選択肢がある。

池田氏に赤ん坊の命名をしてもらいたいときには、定められた手続きが必要だ。

地域の拠点となる会館に出向き、そこで申請用紙に記入する。すると、その書類は本部に送られる。命名がおこなわれると、書類を提出した会館から返事がある。申請者が会館へ出向くと、きれいな和紙に毛筆で赤ん坊の名前が記されている。その紙がまだ実家にあるという会員も少なくないだろう。

池田氏命名してもらった会員の子弟がどれほどの数にのぼるかはわからない。ただ、命名してもらった会員は、ほかの会員からうらやましがられることが少なくない。

多忙な池田氏が、申請された一人ひとりの名前を実際につけているのかどうか、それはわからない。精力的に各地をまわり、会員を激励し続けてきたことから考えれば、池田氏本人が命名してきた可能性も考えられる。少なくとも会員は、「自分の子どもは池田先生に命名してもらった」と信じている。

 

子どもにとっては一生のコンプレックスになることも


ただ、名づけ親が池田氏であることで嫌な思いをする子どももいる。

学校で、自分の名前がどのようにしてつけられたのか調べるといった授業もある。そのとき調べてみて、名づけたのは親ではなく、池田氏だということを知る。子ども自身がそのことをどのように感じるかということもあるが、学校でその事実を公表しなければならなくなる。

ほかの子どもはたいがい、親や祖父母につけてもらったと答える。となると、自分だけ違うということがコンプレックスになったり、これは人に告げてはならないと感じるようになったりもする。それは創価学会にちなむ名前をつけられている場合も同じだ。

そうした事実を学校で明らかにすると、何か問題が起こると感じているようなときには、命名の由来を曖昧にしか言えなかったり、隠そうとしたりする。名前は簡単には変えられないものなので、子どもにとっては生涯続くコンプレックスとなることもある。

 

生後すぐ会員にさせられるのは憲法違反か


「親が創価学会」であるというだけで、子どもも創価学会の会員になる。

これは、日本国憲法が保障する「信教の自由」に違反するのではないか、そのように考える人もいるに違いない。

これはなかなか難しい問題である。

そもそも、こうしたことは創価学会だけの問題ではない。

もし「親がカトリック」なら、親は生まれた子どもを所属する教会につれていき、神父に「幼児洗礼」を施してもらう。その際には、必ず「洗礼名」を授けられる。洗礼名には、パウロやマリアなど、有名な聖人の名前が用いられる。

これによって、赤ん坊は、自分が知らないうちにカトリックの信者になる。プロテスタントのなかにも、幼児の段階で洗礼を受けさせるところがある。

一般の仏教教団であれば、家が単位になっており、特定の寺の檀家(だんか)になっていれば、生まれたときからその宗派の信者ということになる。ただし、洗礼のような特別な儀礼はない。

神道の氏子(うじこ)も同様である。神社のある地域に生まれれば、自動的にその信者になる。「初参り」というしきたりが広がっているが、行くのは主に地域の神社である。それによって赤ん坊は氏子の仲間入りをしたことになる。

つまり、宗教がなんであれ、特定の信仰を持つ家に生まれた人間は、最初から信者として扱われるわけである。

こうした家の親に対して、子どもにも信教の自由があるからと言って、入信させないようにするのは、実際的に不可能である。また、親の方も納得しない。

宗教は生活と密接にかかわっている。信仰を持つ家庭の子どもに宗教と無縁な生活を送らせることは難しい。それに、親が子どもに信仰を伝えることも、信教の自由としてとらえられる。

赤ん坊には、信仰を与えられたことが良いことなのか、それとも悪いことなのか、その判断はつかない。そうしたことについて考えるようになるのは、かなり成長してからである。

なかには、創価学会の信仰をそのまま受け入れ、会員としての生活を送っていく者もいる。

反対に、成長してから、親から与えられた信仰に疑問を持ち、脱会まで考えるようになる者もいる。

 

( 以下略 )

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